2004年2月の一言
さて。
観てまいりました、『王の帰還』。
いちばん奮えたのは、やはりなんといってもペレンノールが原Pelennor Fieldsへのローハン騎兵の突進であります。
いやー、これが観たくて四半世紀も待ってたんだなあ……。
(ちなみ日本語でもともと「原」というのは平坦で広い土地のこと、「野」というのは山裾などの傾斜地をそれぞれあらわす
言葉でして、Pelennor Fieldsは地図資料を見るとかなり平坦なので、むしろ「〜が原(ヶ原)」と訳するべきだというのが新城の意見です。「関ヶ原」みたいでかっこいいし。
それに原文ではFieldsと複数形になってるんで、たぶん耕作地なんでしょう。「〜野」って書くと、なんだか草ぼうぼうの無人の地みたいな印象が強くって……。
ほんとは「ペレンノールヶ原」と表記したいところですが、そうするとカタカナが続いて読みにくいんで、とりあえず。)
が。
それと同じくらい、Ring-bearerという言葉の重みを実感してきました。
bearという単語は、日本語ではイマイチ伝わりにくいのですが、「帯びる、(荷物を)負う、担う」と同時に「(それに)耐える、我慢する」という意味もあります(古くは「子供を孕み、その重みに耐える」ことを主に指していたとか。今でもto bear a child という言い回しがあります)。
語源的には「重荷burden」ともつながってる言葉なのでして、だからこそフロドが「指輪の担い手Ring-bearer」と呼ばれることには特別の響きがあるわけです。だもんで、オロドルイン山腹でのサムの「あなたの代わりに運べはしないけれど……」というあの台詞の素晴らしさも際立つわけで。
そして、bearが語源的に「妊娠」を暗示するとなれば、それは「出産to give birth」の対極もしくは通過点とも捉えられます。
指輪を他人から「奪う」のではなく「自由意志で譲るgive」ことのできた(もしくはそうしようという意志をもてた)者だけが指輪の魔力に負けずに生き延びてきたという作中の経験則と、これを照らし合わせて考えれば……アルウェンの「私のものだからこそ、さしあげられますit is mine to give」の一言は、ゴラムをはじめとする多くの者たちの「それは私の所有物(もの)だit's mine!」という欲望の叫びの対極にあることも理解されるでしょう。
さらには、あのガンダルフの「(運命もしくは神から)自分に与えられた時time that is given to youを如何にするか、考えるべきはそれだけじゃ」という台詞の真の深みも。
映画版は、原作の数あるモチーフやテーマの中から、「与える/譲る」と「奪う」の対立にしぼって中心に据えたのだなあ……だからこそ成功したのだなあ、というのが新城の今の感想であります。
といったような意味も含めて、やっぱし「指輪所持者」という言いまわしは、物語の構造上、微妙に弱い訳語だと新城は思っております。御異見も多々ありましょうが>全国の指輪マニアならびに訳者の皆様。
うをを、今回は脳内の「言語マニ野(まにや)」が全開だああ。
という小難しい講釈はさておき。
今回、どんな場面で新城が泣いたかと申しますと、
……「ここから先はゴンドール領じゃ!」と
ガンダルフが言った瞬間。なんでやねん。
……アモン・ディーンからハリフィリエンへ次々と
灯がともってゆくところ。衰退してるとはいえ、
辺境にもきっちり人員配置してるゴンドールに
ただ涙、涙。
……ファラミア&百騎の無謀な突撃。
都市制圧を完了して攻城兵器も持ってる敵陣へ、
真っ昼間に騎兵だけで二列横隊で突撃ってアンタ……
泣けと言ってるようなもんですよ!
くそー、こういう場面、小説で書きたいなあああ〜。
……冒頭にも書きましたが、ローハン軍勢の一斉突撃。
……黒門前、アラゴルンの台詞:
「ーーだがそれは今日この日ではない!」
これ、たしか原作にあったような気がするんですが
どうだったかなあ……。
……主題歌Into the Westの主旋律が、勇壮な音楽の
後ろからチラリと顔をのぞかせた瞬間。うーむ、
まさかメロディだけで泣けるとは。
……ホビット四人だけで静かに乾杯の場面。
彼らは「英雄になった」のではなく、
「大人になった」のですわい……。
といったところでしょうか。
でもいちばん印象的な(たぶん映画オリジナルの)
場面は、オスギリアスを陥としたあとで、
顔の半分つぶれたオークの隊長らしき奴が、
「ーーこれからぁワシらの時代や!」
(↑なぜか脳内で関西弁翻訳)
とニヤリするところでありました^_^;)。
二作目でのグリーマの涙一粒といい、ピージャク監督
ったらこういう「戦時のありがちな悪役」描かせると
ホント上手いなあ〜。……